本当よう頑張った

外泊届を2枚書きました。
1枚目、外泊事由。
「祖母の容態が思わしくないので、帰省します。」
 
普段、あまり僕の携帯に連絡をいれることのない
父から一週間という短いスパンで電話がかかって
きました。それは緊急を意味するものだったのです。
「おばあちゃん、もう長くないわ。」
19:15。
祖母が寝たきりになって、体の衰えが著しくなって、
いつ逝ってもおかしくない、と11月頃からずっと聞かされていました。
だから、この父からの電話を冷静に聞くことができました。
それほど驚くこともありませんでした。
実家に帰る計画をたて、バイトを休みたいと電話をいれ、
寮の2年生の集まりをいつにするか他の寮生のとこへ相談に行き、
全く以って冷静に、やるべきことを進めることができたと
思います。それはもう冷静に。
 
小さい頃から祖母にはすごく可愛がってもらいました。
市場に連れて行ってもらったり、
うなぎ屋さんに連れて行ってもらったり、
松坂屋に連れて行ってもらったり。
駄菓子屋についてきてもらうこともありました。
僕に対して怒ったことなんて一度もありません。
お金をくれるときはいつも僕にだけ他より多く
くれました。
祖母の口癖は
「わしは大学なんてどこでもいいから
孫には旭丘に行ってほしい。」
でした。
僕が旭丘高校に合格したとき、
僕の親よりも、僕自身よりも、
誰よりも喜んでくれたのは
祖母だったことを今でも記憶しています。
「本当よう頑張った。」
と。
本当に本当に可愛がられて育ってきました。
僕が親と喧嘩したときも
祖母はいつも僕の味方になってくれました。
 
昨年のいつごろだったか、祖母にいわゆるボケが始まり
それまで元気だった祖母の姿が一変しました。
そのまま入退院を繰り返し、もう話すこともままならない状態で
衰弱していきました。
僕が救いだと思ったのは、元気だったときから
「わしは長生きなんてしたくにゃあ。」
と言っていたことでした。
この言葉は別に生きているのが辛いからでは
ないことが僕には分かります。
未練がないと言えるほどに生を全うしたのだと思います。
幸せだったのだと思います。
 
0:10。
父から5時間という短いスパンで電話がかかって
きました。緊急を意味するものでした。
すぐさま下へ降りて、2枚目の外泊届をとりました。
「祖母の葬儀に参列します。」
 
東京は雨が降っています。
名古屋は晴れていて欲しいな。