コンペキノソラノシタ 後編

 大学生であり浪人生であることに疲れが見えてきた十一月に、
僕は独り新幹線に乗り東京に向かった。五年間の休止から早大生の
手で復活させた早稲田祭を見てみたかった。五年間。
この五年の間に早大生が考えたこと、感じたこと、祭りがやりたい
ということ。地味に始まった署名活動は学内だけで一万二千という
とてつもない数の署名を集め、大学から学生の自主運営という形の
早稲田祭を勝ち取った。僕の憧れる熱い早稲田像がそこに見えた。
祭り当日は生憎の天気ではあったものの、早稲田の熱は決して冷める
ことはなく、フィナーレでは見知らぬ人と肩を組んで紺碧の空を歌い、
精一杯拳を振り上げて都の西北を歌った。他の大学では絶対見ることが
出来ない光景。早大生の熱が渦巻く中、最後に早稲田祭二〇〇三代表は
こう叫んだ。
「この世に大学は二つしかない!早稲田大学とそれ以外だ!」
間違いない。この世に大学は二つしかない。早稲田に入るしかない。
 成人式も後期試験も終わり、二月になった。大学から解放され、
受験勉強に専念できる最後の二週間。英単語帳と日本史ノートと
早稲田大学しかない赤本を積み上げ、何度も何度も書きなぐった。
 
 東京の空気は、愛知とも滋賀とも違う。受験日当日、冬の匂いに
今までの受験を振り返り、大きな不安と一抹の寂しさを胸に抱き、
受験生の彩る人モザイクの中へと足を踏み入れた。試験が始まると
時はあっという間で、受験生として過ごした三年間の思いを解答用紙に託し、
最後の鐘を聞いた。
 
 四月一日。最高の日だった。
 
 十月三十日。この早稲田への道のりを自分の部屋のパソコンで打っている
今日。早稲田での生活が当たり前となっている今日。運営スタッフとしての
早稲田祭を一週間後に控えた今日。様々な思いは交錯するばかりだけれど、
大隈講堂の持つ意味は早大受験を決めたあの日と何も変わらない。
「僕は大学生になりたかったんじゃない、早大生になりたかったんだ。」
この気持ちに偽りは無い。憧憬が日常へとなった今も、あの胸の震える感覚は
残っている。早稲田でなければならなかった。早稲田でなければ意味が
無かった。紺碧の空の下、今ここにいることが本当に、
しあワセダ。