さて、と

今日は中国語の勉強しただけで他は特に何もやってないなー。書くこと
ないから今日はむかーし考えたことでもここに書くかな。
 
高校一年の時のたった一度の失敗でその後の人生が大きく変わった
ことを認識している。このときの失敗がなければもう少しだけ世間に
認められる形で今を迎えることが出来ていたんだろう。
まぁ結果として今この現状に頗る満足しているので、これは過去の話で
しかないのだが、当時は「死にたい」と思うことが毎日のようにあった。
これはいま振り返ってもリアルにだったのか、比喩的な表現としてだった
のか自分にも分からない。理由を言えば「なんだそんなことで」と思われる
んだろうけど、当人にとっては、そんなことにこそ重きをおきたいんだ。
今こうしてブログを書いているわけで、つまりその時は何もアクションを
起こさなかった…というわけでもないんだけれど、とにかく何もなかった
わけで。そのとき踏み切れなかった理由は単純に怖かったということ。
もうそのときは色んな人に相談やら愚痴やらを言いまくってもう本当に
精神が崩壊したんだってぐらいに毎日毎日誰かに助けを求めて、夜も
ほとんど眠れず、学校行っても家に帰ってもまさに何も手につかない。
みっともないくらいにあがいて、もがいて。それでもどうしようも
なかった。僕がなりたい人間というのは、一つのことが飛びぬけて
できるような人間でなく、全てのことが人並み以上にできる人間で
あるが、その思いとは裏腹に「これだ」と思うものを見つけると、
それ以外は見えなくなってしまう。さして結果を残せるわけでもないのに。
このときは、自分がこれだと思ったものに絶望を感じたわけで。
もうどうしようもなくなったとき、安直なんだけど、やっぱりこの空間
から消えてなくなりたいと思ってしまった。これが甘えであることは
否定できない。けれど、そのときはそんなことも考えられなくて。
もう本当に鬱になって無気力になって、どうにかしたいってどっかでは
思ってるんだけど、もう無理を悟ってしまっていることにも気づいていて。
 
そんなときに友人の一人がバイク事故でこの世を去った。この友人の死は、
僕の生と死に対する考えを変えるものであった。けれども、この変化って
いうのはきっとみんなが考えるような綺麗ごとでなく、僕自身にとって
あまりに皮肉な変化をもたらした。これは本当に大きな出来事で、
自分がイメージの世界で生きていることを痛感させられた。リアルと
アンリアルの無情なまでの距離に驚いた。
ひとつだけこのときの経験から得たものがあるとすれば、現在の持つ
意味だろうか。未来を創るのは現在であるが、過去を造るのも現在で
あるということ。このことに気づいたことで今の僕は在る。