読むということ、書くということ

大学受験から離れてもうすぐ1年が経つ。
早稲田の入試問題は大抵、英語・国語・選択科目(数学、地歴)
であるけど、二文の試験には選択科目の代わりに小論文が課される。
去年の入試、生まれて初めて書いた小論文のテーマは確か
「読む」ことと「書く」ことについてだった。
私の今までのブログを読んでもらえればわかるが、
私自身に高尚な文など書くことはできない。
技巧をこらした文など書くことができない。
二文の入試でもなんとか形にしたという感じであった。
このときどんな内容を書いたか、それはここでは問題でない。
 
最近、学校や寮の関係で手紙を書くことや
手紙を読む機会が増えた。
種種の文書に触れて考えるのは、読み手に対する意識如何である。
”誰に対して”というのはどんな手紙であっても明白であるが、
その対象が個人であるか集団であるか、それとも
その中間であるかで印象が、内容が、がらりと変わる。
このブログにしても、はじめは寮生には内緒のつもりであった。
いや、それだけでなく自分を知る人間には内緒にするつもりであった。
匿名性を活かして日々を書き綴るつもりであった。
ネットが不特定多数に発信するものであっても、
特定少数に気づかれる可能性なんて微々たるものであろう。
それが、寮生がこのブログの存在を知ることによって、
内容を変えざるを得なくなった。これが良いことか、悪いことか、
それはここでは問題でない。
 
ある知人が私と同じくネット上に日々の徒然を綴ったものや
思索的色彩の強い散文を公開している。
彼女の描く文は小説的で絵画的で、女性としての有様を
映しているように感じられる。
これが彼女の才能なのか、男女間の性差なのかわからないが、
それはここでは問題でない。
 
携帯電話の普及と共にメールも一般的になったが、
個人的な事情でメールというものが嫌いになった。
やはり、自分の字で書いたものでなければ、
感情がうまく伝わらない。絵文字や顔文字を使用したところで
無機的であることに大して意味は違わない。
先日、学部の教授から手紙が届いた。それは印刷したものであった。
今日、先輩の親からの手紙を受け取った。それは手書きのものであった。
昨年、私が所属した団体は協賛企業に一つ一つ手書きで手紙を書いていた。
読み手に対する意識が伺われる。
書くためか、読まれるためか、それが問題だ。